核廃絶、命ある限り 広島で被爆経験の桶田岩男さん

update 2025/8/11 07:22


 今年は戦後・原爆投下から80年。広島被爆者の立場から長年、熱心に語り部活動を続けているのが、函館在住で元北海道被爆者協会副会長の桶田岩男さん。96歳の高齢にもかかわらず、「被爆当時の広島の地獄のような惨状が脳裏から離れず鮮明に記憶している」と、原爆の恐ろしさを訴え続けている。

 桶田さんは当時16歳。衛生兵になるための学生(現在の東広島市にあった賀茂海軍衛生学校)だった。当時は新型爆弾と言われた原子爆弾が投下された8月6日に、治療の先遣隊として150人ほどの仲間と一緒に木炭車で昼頃約40キロ離れた広島市内に入った。

 しかし、辺りは一変。道路上に建物が崩壊し、目を覆う状況に直面。街は見渡す限り焦土と化し、煙突が2〜3本と原爆ドームがひとつポツンと残っているだけで、彼方の山裾まで見渡すことができたという。「この世の姿とは思われない、言葉や文章では到底表すことのできない惨状で、これが地獄というものかと、一瞬我と我が目を疑い、強烈なショックを受けた」

 道端には無数のがれきが燃えくすぶる中から、うめき苦しむ声、助けを求める声が聞こえてきた。いくつもの橋を渡るたびに川が無数の体を焼かれた人で埋め尽くされ、生きたまま流れていく人もいた。「道路の脇にある防空壕を開けると、何人もの人々が蒸し焼き状態でものすごい形相で自分の胸やコンクリートの壁にもかきむしった爪の跡が残っていた。電車は骨組みだけしか残っておらず、乗客は逆さになったり横になったりして全員亡くなっていた」と話す。

 夕方、なんとか爆心地から約1・5キロ離れた横川駅前の広島市信用組合本部前(横川3丁目)に救護所を設置。翌日から治療を開始し、三日三晩寝ずの治療に当たった。「あっという間に消防団に連れられた夢遊病者のような人など、数千人の被爆者が集まってきた。全身にやけどを負った人、両足を切断された人など、ほとんどの人は皮膚が垂れ下がり、中には骨まで見える人もいた」

 薬といってもブドウ糖や生理食塩水、やけどの炎症を和らげるチンク油程度で、その量も限りがあり、海水を煮沸した食塩水も使った。「傷口を治療しても皮膚がないので包帯など巻けない状態で、ガーゼを掛けるのみだった。医学的に見て助かりそうな人には応急処置を施したが、助かる見込みのない人には大丈夫だからしっかりと慰めの言葉をかけるだけしかできなかった。『兵隊さん水を、水をください』と悲痛な声があちこちから聞こえていたが、軍医からは水を飲ませたら死ぬからダメと言われていた。こっそり声も出せない婦人にブドウ糖を飲ませたら、にっこり笑って『ありがとう』と話し、直後に亡くなったことなども忘れられない。前日に治療しても朝になるとほとんどの人が死んでいて、今でもあの時に水を飲ませてあげればよかったと後悔してもしきれない」と涙ながらに話す。

 桶田さんは自身も被爆の影響で体調不良に悩まされながら、被爆者として30年以上前から被爆の実相を小中高校や道教育大学函館校、函館YWCAなどで積極的に語り続けている。「被爆の生き地獄を見た者として核廃絶を強調したい。悲惨な状況を外国の人に体験させたくない。戦争に正義はない。命ある限り、先頭に立って次世代に語り続けたい」と言葉に力を込める。

提供 - 函館新聞社

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