函館人模様・岡田菊江さん 4

update 2005/5/4 10:04

 4男1女の子育てに追われた岡田さんは、どんなに忙しくても本だけは読んだ。「人間はどう生きればいいか」「生きるとはどういうことか」「1人の母親として子供をどのように教育したらいいか」―。これらを学び、考え、吸収した。

 子育てが一段落した昭和50年代、自身も50代に入ってから、新聞や雑誌への投稿を始めた。24歳で小説を書き、それから四半世紀以上を経ての執筆だ。新聞では各全国紙や道内紙に送った原稿は、ほとんど採用されたという。雑誌「婦人画報」懸賞エッセーでは約400編の中から見事特選に輝き、1982(昭和57)年の新年特大号に掲載された。

 このほかサンデー毎日や各雑誌社、ラジオ番組募集の戦争体験手記などで、数々の入賞歴を持つ。採用された原稿は数えたことがないが、「200ぐらいはあるでしょう」という。すべて切り抜きするわけではない。本も読んだら処分する。「みんな頭の中に入っているから。記憶力だけが取りえなの」と流す。

 岡田さんの文章には、難解な言葉は一切ない。文章を書く人が陥りやすい、難しい言葉を使えば質の高い文章になると考える「錯覚」は、最初からない。

 投稿関係で、今でも活動しているサークルがある。読売新聞の投稿者でつくる「こだまの会」は、自身を大きく成長させてくれたという。今も各15人ぐらいの2組で「回覧ノート」を回し、岡田さんは経験や体験に基づいた「小説みたいなもの」をつづる。読んだ会員からは「こう書けばいいのでは」など率直な批評や感想が寄せられるが、「粗探しやねたみ、足の引っ張り合いじゃないの」という。

 80歳の岡田さんは、きれいな標準語で話す。84(昭和59)年から92(平成4)年まで、体調を壊した四男の看病のため、神奈川県川崎市で夫と3人で暮らしたからだ。「こだまの会」では毎月、講師を招いて勉強会をした。大学教授もいれば松下政経塾の講師もいた。文章も考えも言葉も、都会風に洗練された。

 川崎時代、もうひとつの挑戦があった。シナリオの勉強だ。以前から通信教育で学んでいたが、本格的に青山の学校に通った。小説やエッセーと違い、会話と情景だけで物語を紡ぐ世界に、最初は戸惑った。また90歳の車いすの女性が、「この分野を見極めたい」と言って入校してきたという。「さすがは東京ですね…」

 机を並べた友人に、シナリオを30年以上学び、相当な力量を持った女性がいた。だが結局オンエアされず、「実力だけでは通用しない世界」を強く知った。

 また、著名なプロデューサーが手練手管で、夢見る若い女性とプライベートな関係を結んでいく姿も、散々見た。「あっちの方がよほどドラマでしたね」―。都会ではありふれた光景かもしれない。

 「書く」ということは、才能だけではどうにもならない一面を垣間見た。

提供 - 函館新聞社



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