函館人模様・岡田菊江さん2/着物と米を交換、涙…

update 2005/5/2 10:18

 防空監視哨で約1年の食事賄いを終えた岡田さんは、1944(昭和19)年暮れから翌年にかけ、いとこの出産のため東京で過ごした。中野に着いたその翌日、いきなり空襲警報が発令され、防空壕(ごう)へ避難した。

 毎日のように続くB29の空襲。そんな中で奇妙な光景を目にする。街を歩く女性たちが正装しているのだ。女性たちは「私たちにはあすがないから、たんすの中のいい着物を着てその日一日を過ごしたい」と言っていた。いい物を着て、その日一日を送ること、生きていることだけで幸せなのだと思った。そして「自分もどうせ死ぬなら、あこがれだった東京で死にたい」と思った。

 45年6月には木古内にもB29が現れ、自宅前に家族と一日がかりで防空壕を掘った。岡田さんは、人生の指針となった後藤静香の「権威」を、妹は人形を持ち込んだが、やがて地下水と土に埋もれた。

 防空壕は危険ということで、自宅裏山に地域の人たちとスギの枝と葉を組み合わせて「家」を作ったこともある。こんもりとした、地域の十数戸の緑の「家」が並んだ。中は背伸びするのも不自由なほど狭い。雨の日も、不思議と誰も風邪をひかなかった。「極度の緊張からでしょう」

 終戦後すぐ、21歳で結婚。夫の恒太郎さんは造林関係の仕事に携わっていた。翌46年、長男を出産。「あすの命の保証がない」日々から、「どう食べて、生きるか」の日々に変わった。新たな命も抱えている。忘れもしないのが、乳飲み子をおんぶしながら農家を訪れ、着物などと食糧を交換した日々のことだ。

 自分の着物が尽きて、ついに夫の冬用の一張羅を風呂敷に包んだ。農家の主人は、大きな丼に真っ白なご飯をよそいでいた。奥さんは「いいんですか。こんな上等な服を」と言いながら、決して等価とは言えない量の米を分けてくれた。物の価値はあっても、米の前にはないに等しかった。その間、主人は3杯目の丼飯を食べていた。おなかが鳴った。

 農家の主人は丼で茶を飲み、妻に「ああうまかった。おーい、早く食べろ。食わないと働けないぞ」と叫んだ。少ない米を抱えた自分のみじめさを笑われた気持ちになった。農家にお礼を言ってきびすを返した。「仕方がない。私が悪いんじゃない。何もかも戦争のせいなんだ」と何度も繰り返し、あふれる涙をこぶしでぬぐった。

 食糧に苦労したのはもちろん、岡田さんだけではない。春には農家の畑で腐ったくずイモを拾う人たちの姿が見られた。とても食べられるものではなかった。「この悲惨な思いは絶対忘れず、何らかの形で伝えたいと思いました」という。

 22歳の岡田さんにとって、夢も希望も、青春もなかった。唯一、支えになったのは子供だ。暗闇の中の手探りの時代、何も知らずに笑っているわが子の顔を見ると、一条の光が差し込むのを感じた。「早く大きくなるのよ、と子供に語りかけたのが、ただ一つの救いだった気がします」―。気丈に生きた姿が伝わるように、りんとした表情で語った。

提供 - 函館新聞社



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