落語家・東家夢助さん、人情に支えられ40年

update 2006/1/1 05:54

 全国各地に幅広いファンがいる函館市在往の落語家、東家夢助さん(65)。函館に移住し、ことしで40年目を迎える。「北のはなし家」として、函館と全国を落語で結ぶ活躍は、話芸だけではなく、夢助さんの人間的な魅力があってこそ。夢助さんは「私をここまでにしてくれたのは函館の人情のおかげ」と話している。

 1966年。一人の青年が函館に渡った。「落語家ではなく、何もかも放り出した人間として」と当時を振り返る。

 東京生まれ。幼いころから落語好き。高校時代は上野にある寄席、鈴本演芸場に通った。人情話を多く語る5代目柳家小さん師匠の落語を好む。高校卒業時、縁があり、小さん師匠に紹介してもらい、「柳家栗の助」として落語家デビューを果たした。4年後に小三太と改名。このころ、仕事で北海道を回るようになった。

 65年。25歳の小三太は函館を訪れ、函館労音との付き合いが始まった。労音関係者の家でホームステイまでした。同年代の若者との接触が心を動かした。「社会人とし、心を裸にして付き合う姿勢。着飾ることなく、正直な人ばかり」。東京では本音を出さない人ばかり。函館での暮らしにあこがれを持ち始めた。

 東京と函館を往復するたびに、函館の人に対する思いは自分の現状に対するジレンマになった。うわべだけの付き合い、自分を出さない人々…。そんな付き合いから脱したくなった。酒におぼれた揚げ句、睡眠薬を多飲した。「死のうと思っても死に切れなかった」

 小三太のそうした様子を、元函館労音の事務局長、佐藤美津雄さんはじめ、函館の人は知っていた。「事件」に触れず、激励を繰り返す言葉に「何もかも放り出して函館に行く」と決心。落語も辞める決意で。

 函館では労音関係者ら50人が、一人の労音事務局員を盛大に迎えた。事務員として第2の人生が始まった。

 ある日、仕事先で落語を一席話した。「落語を辞める」約束を破ったことに佐藤さんは激怒。だが、翌日、佐藤さんは「多くの人が、あなたに落語をしてほしいと願っている。今度落語を始めたら、自分勝手に辞めることは許されない」と言い聞かせた。人情味あふれる説教に、再び落語人生を歩む決意をした。

 名前の由来は「東から歴史を作り上げ、夢を持って人を助ける」。東家夢助の誕生である。以来、出前落語や講演会で、道内、全国各地に招かれている。素人落語家を集めた「全国落語大学」を開校。学長を務め、全国と函館の交流を進めてきた。

 40年の節目を迎え、函館の町の変化を感じている。「生産の臭い、汗がなくなっている。観光客の懐の話ばかり」。しかし、いまだに変わらないのは「人情」という。

 「人を見送るときなど、姿が見えなくなるまで見送ってくれる」という。「長い歴史と、早くから外国に町を開いたことから生まれるのでは」。幾度も熱く心に受けた人情に支えられて40年。ことしも各地での活躍を誓う。

提供 - 函館新聞社



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