台風の影響は?

これからは台風シーズン。工事にも多少影響があるはず。進行が遅れると、冬場の完成になっちゃうかも!?

さて今日は、一族21人自刃など波乱万丈な人生を送った会津藩家老。

文政13年、代々会津藩家老職を務めた西郷家に生まれた西郷頼母近悳(たのもちかもり)は、会津で生まれたが父が江戸勤めであったため、江戸で暮らすことが多かった。
文久2年、頼母近悳33歳の時に家老に任ぜられるが、同年松平容保の京都守護職の命を受ける。苦境を強いられることは明らかで、何度か辞任を願い出ると容保の怒りを買い、家老職を免職となる。
慶応4年、奥羽伏見の戦いが始まると、頼母近悳は家老に復職し白河口総督として奮戦するが、鶴ヶ城は落城、頼母近悳の一族21人は自刃し、会津藩は降伏の道をたどる。落城直前に容保の命を受け城外に出ていた頼母近悳は、大鳥圭介らとともに榎本らと合流し蝦夷・箱館へと向かう。箱館で抗戦するが新政府軍の猛攻を受け、あえなく降伏する。
その後、東京深川の覚樹王院で暮らし伊豆に移ると、依田佐二平らの開設した謹申学舎塾で漢学を教え、塾長に。その後は都々古別(ツツコワケ)神社の宮司に就任するが、西南戦争が起ると、西郷隆盛と交友があったということで宮司を解任される。
旧藩主松平容保が日光東照宮宮司となると、頼母はその補佐役の禰宜を務めた後、大同団結運動に参加したり士族会を結成するが、再び福島県霊山町の霊山神社宮司となる。
晩年に帰郷するも不遇のうちに生涯を閉る。

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