まわりをぐるっと

時間があったので、工事現場のまわり1ブロック歩いてみた。
裏側から見ると、すでにコンクリートの壁が出来てるのが分かります。

さて今日は、『幕末外交談』の中で「幕臣三傑」のひとりに数えられているこの人。

永井尚志は、文化13年に三河国奥殿藩主松平主水正の子として生まれる。3歳で父親を亡くす。25歳まで江戸藩邸で暮らすが、旗本・永井能登守の養子となる。
小姓組番士に登用、御徒士頭を経て、嘉永6年に目付に任命されると、勘定奉行、外国奉行、京都町奉行、大目付、若年寄と出世する。有能な外務官僚として嘉永7年には海防掛を命ぜられる。
安政6年、安政の大獄で罷免されるが、万延元年の井伊暗殺後に復帰すると、文久2年には京都町奉行に就任。慶応3年には旗本最高位の若年寄に就任となり、大政奉還上表文の起草をする。
鳥羽伏見の戦いで敗北すると、敗戦で混乱する軍を収拾して江戸に退く。江戸城開城となると、新政府軍へ抵抗する榎本武揚の艦隊に同乗し、品川沖を脱出。蝦夷へ向かう。蝦夷・箱館では蝦夷共和国箱館奉行に就任。新政府軍の猛撃に際し、新選組、砲兵隊と弁天台に籠もり抗戦するが、五稜郭に先んじて降伏。この戦いで養子のように可愛がっていた永井蠖伸斎を亡くす。
降伏後、永井は榎本らと同様に東京で投獄される。明治5年に放免となると、開拓使御用掛に出仕、左院少議官を経て元老院権大書記官となる。退職後は亡き友人岩瀬忠震の最期の邸の向島の別荘「岐雲園」に移り住み、岩瀬の霊を祭りながら静かに暮らした。

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