やはり地階は

やはり地階は駐車場らしい。
145台分の駐車場を確保ということだ。一家に2台はあたりまえの車社会の函館、大型駐車場は必須だよね。

さて今日は、唐津藩の公子と呼ばれたこの人。

小笠原長行は、文政5年に肥前唐津6万石の藩主小笠原長昌の長男として生まれる。安政4年小笠原長国の養嗣子となる。幼い頃より聡明で、その学識の深さは有名であった。世子(後継ぎ)として認められた長行は、文久2年に奏者番、同7月に若年寄、9月に老中格、10月に外国御用取扱と異例の早さで出世する。12月には大阪へ、そして京都にて参内するも、翌年の4月には生麦事件(薩摩藩士による英国人殺傷事件)が発生、英国との武力対決を避けるため江戸へ戻り、賠償金を独断で支払う。このことで罷免、幽閉される。
慶応元年に老中に任命されると、翌年には第二次長州征討で九州諸藩の指揮を執るが、情勢が不利と判断すると軍艦で脱出、幕軍の敗北を決定づけることに。敗戦の責任を取るかたちで職を去るが、すぐに老中に復職し、外国事務総裁として兵庫開港に尽力。
鳥羽伏見の敗北を喫するとすぐ、老中を辞任。江戸を脱出し、棚倉、会津、仙台、そして榎本艦隊に身を投じて蝦夷・箱館に向かう。箱館五稜郭では新政府軍に抗戦。唐津藩士らは、土方歳三の傘下に加わり新選組隊士となって戊辰戦争最後の戦いでも奮戦する。
戦況が不利になると、総裁榎本の意向で旧大名らを脱出させることに。長行も、降伏c直前に英国船で箱館を脱出、浦賀に着くと世間には横浜から米国に去ったと思わせ、身を隠し静かに暮らした。

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