外壁か?

今日はシトシト雨模様で薄暗い天気だが、何やら薄っすらと外壁らしきシルエットが所々に透けて見えたました!いよいよ次の段階って感じです。

さて今日は、最期まで徳川幕府を必死に支えたこの人。

文政6年、桑名藩主松平定永の八男として生まれた板倉勝静(かっきょ)は、天保13年に備中松山藩主板倉勝職の養嗣子となる。備中松山藩では、短期間で山田方谷らを中心に行財政改革を行い、認められる。安政4年には奏者番兼寺社奉行を務めるも、安政の大獄で寛大な処置を主張したため大老井伊直弼によって罷免される。2年後に奏者番兼寺社奉行に復帰すると、翌年には老中となり幕政を担当する。慶応の藩政改革ではよく補佐し、大政奉還にあたっては意見の衝突が多かったが実現に尽力する。
鳥羽伏見の戦いで敗れると後老中を辞し、家督を息子勝全に譲り日光山南照院で謹慎中、新政府軍の来攻に会い幽閉されるが、大鳥圭介に救出され会津に逃れる。仙台で榎本艦隊に合流し、蝦夷・箱館に向かう。藩の家臣の脱出要請を拒んで箱館にとどまったが、明治2年5月の五稜郭の開城に先だって箱館を脱走。東京に戻り新政府軍に自訴(自主)する。安中藩に禁固されるが、特旨をもって禁固を許された勝静は上野東照宮祠官となる。
享年67歳。

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