中はすごいことに!

ある程度組みあがった鉄骨、外から見てもあまり変わりばえしてないようですが、その中はすごいことになってます。
所狭しと足場やら木枠やらが組み立てられ、迷路みたい。

さて今日は、函館の町名に名を残す、悲運の人。

下田奉行与力の家に生まれた中島三郎助は、父の跡を継ぎ与力になると浦賀奉行に付く。安政2年に海軍伝習所第1期生として入所。同期には勝海舟、矢田掘鴻らという後の幕府要人も多く、後輩には榎本や沢などがいた。日本人として最初に黒船に乗り込んだひとりでもある。
病弱だったため、家督を嫡男に譲り渡し隠居となるが、軍艦役として再び出仕することになる。元治元年に富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に就任する。鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍による軍艦の没収の話しを聞き、榎本らと江戸を脱走し北上、蝦夷を目指す。このとき2人の息子も同行する。
蝦夷につくと箱館奉行並に就任、千代ヶ岡砲台(現在の千代台町付近)の隊長として浦賀奉行時代からの同志たちと守備に付く。戦況が徐々に不利になっても、頑として降伏を受け入れず引き上げることもなく最後まで抗戦を主張。16日未明、政府軍の総攻撃を受け新政府軍の激しい攻撃に倒れ息子二人も同じく壮烈な最期をげた。
函館市中島町は、この壮絶な死を遂げた中島親子の名をとってつけられた。

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