お盆と火葬、函館の謎に迫る

2013/7/12
 本州や道内では8月のお盆が一般的な中、函館の旧市街地では7月にお盆を迎える。葬送で、通夜の前に遺体を焼くのも函館独自の風習だ。その違いを生んだ底流には、市民生活に合わせて変化する民間信仰があるようだ。船見町の称名寺住職で郷土史家の須藤隆仙さん(83)に理由を聞いた。

 「お盆は本来、7月のもの。明治以前は旧暦の7月に行ってきた」と須藤さんは説明する。盂蘭盆経(うらぼんきょう)に、釈迦(しゃか)の弟子・目連(もくれん)が、母の霊を救うため7月15日に供養の法を行ったとあるのが由来。

 旧暦と新暦は、大体1カ月ずれる。旧暦の7月は新暦の8月、今の7月は昔の6月だ。明治5(1872)年に太陽暦が採用された際、旧暦7月のお盆を新暦7月に行うと、気候的にまだ寒い。そこで暦を1カ月遅らせて8月に行う「月遅れのお盆」が、函館をはじめ全国で主流になった。

 「しかし、函館の場合、8月にやると都合の悪いことがあった」と須藤さん。市を挙げて行う函館八幡宮の祭典が8月にあるためだ。ごちそうを作って親戚一同が集まる函館八幡宮のお祭りと、同じく祖先の霊を迎え、供養するお盆はとても一緒にはできない。そこで「亀田地区を除く函館では、大正6(1917)年から新暦7月に行うようになったのです」と解説する。

 もうひとつの疑問。函館ではなぜ、通夜の前に遺体を焼くのか。亡くなった人を見送るため、遺体を前に家族が起きているのが通夜だ。しかし、お骨になってから通夜をする例もあった。流行病(伝染病)で亡くなった人は「野焼き」されたほか、戦時中は戦死者が遺骨となって帰ってきた。「通夜はお骨でやってもいいのだという観念が出てきた」と須藤さん。

 昔はドライアイスや葬祭場などが少なく、遺体が傷みやすかった。お骨にしてから通夜を営む方が簡便だったという事情もある。

 函館では昭和30年ごろまでは他地域と同じく焼かずに通夜をしていたが、同40年ごろから先に火葬するのが主流となったようだ。「大火や洞爺丸台風の犠牲者が先に焼かれたのは特殊なケースで、それが理由ではない」という。

 須藤さんは語る。「お盆も通夜も、民間信仰のひとつ。民間信仰は、国民の生活に合わせて変わっていく。定着した形というものがないのです」。そして函館は、全国各地から人が集まった“寄り合い所帯”。新しいことを始めたり受け入れる気風が、他の地域よりも強かったようだ。

提供:函館新聞社

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