館城跡から多量の炭化コメ

 【厚沢部】140年前の1868(明治元)年、松前藩が築いた館城跡(国指定史跡、厚沢部町城丘)で町教委が進めている発掘調査でこのほど、「米倉跡」とされる地点から多量の焼け焦げたコメが出土した。館城は築城から半月余で旧幕府軍の攻撃で落城しており、町教委は米倉など城内の建物とともにコメも炎上したものとみている。

 米倉跡は城跡の北東部に位置する。地表から数センチ程度のごく浅い所から、焼け焦げて炭化したコメが多量に出土した。付近では広範囲に土壌も赤く焼けており、石井学芸員は「相当の高温が長時間続いたと考えられる」としている。

 同じ場所では、焼けていない“もみ殻”が付いたままのコメも炭化したコメと重なり合うようにして見つかった。焼失を免れたコメと炭化したコメが同じ場所から出土する理由は分かっていない。石井学芸員は「館城は落城後も20年近く放置されていた。付近では数十年前から多量の米が出てくることが知られていた」とし、出土状況などを詳しく調べている。

 館城は、現在の松前町から厚沢部町に拠点を移した松前藩が1868年9月に築城を開始。箱館戦争の戦火が迫る中で10月25日に完成した。ところが、11月15日には旧幕府軍の攻撃で落城。建物の大半は焼け落ちたという。

 館城跡に関する詳しい史料は残されておらず、町教委は2005年度から、遺構の保存管理計画策定や史跡公園の整備に向けた発掘調査を続けている。本年度の発掘は1500平方メートルが対象。南西側では堀、土塁、柵列などの遺構を確認した。

 28日には町教委主催の現地説明会も開かれ、地域住民ら約20人が参加。箱館戦争当時の激戦を物語る“証し”である炭化したコメの塊などに熱心に見入りながら、わずか75日で落城した、悲運の館城の姿に思いをはせていた。

update 2008/9/29 23:31
提供 - 函館新聞社


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